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欲望の経済史2 - ミラーマンエース

2018/01/28 (Sun) 19:42:46

第4回 「技術が人を動かす」

飽くなき技術への欲望。それは産業革命前夜18世紀初頭のイギリスで加速した。
東インド会社などがグローバルな貿易によって莫大な富を得ていた時代。
インド産の綿織物が上流階級の間で大ブームとなった。
イギリスでも従来のウールに代わり国内で綿織物を作る動きが始まっていた。
産業革命の歩みはイギリス北西部の小さな織物業の町でささやかに始まった。
当時横幅の広い布を織るには機織り職人の他に横糸を通す助手が必要だった。
「杼」(ひ)という舟形の道具を使っての手間かかる作業。
ある時発明家ジョン・ケイが一つの工夫を思いつく。杼の下に車輪をつけて飛ばせばもっと速くできるんじゃないか。
ケイの発明は実にシンプルなものだった。「飛び杼」と名付けられたこの道具の発明で生産性は飛躍的に上がり助手は必要なくなった。技術によって一つの仕事が消えた。
更に問題が起きる。織物を作るスピードが上がり今度は糸を紡ぐのが間に合わなくなった。インド産の綿織物に対抗するにはもっと速くもっと多く。
業者が新しい技術に懸賞金をかけ一度に8本の糸を紡ぐ紡績機が発明された。
技術は次のアイデアを呼び起こし相乗効果でイノベーションは加速し、
生産力は飛躍的に向上していった。
小さかった仕事場は大規模化し分業効率化が進み新たな富を生む「仕組み」が生まれる。産業革命がこれまでの社会の在り方を根本的に変えた。
技術が富を生む
産業革命以前にも資本主義は点在していたが、小規模で封建制の社会だった。
封建制では集団の頂点に領主、支配下に多くの農民がいて自由に仕事ができない。(封建制は土地に人を縛る)
一方、都市にもヨーロッパの手工業達の(同じような)集団があった。親方が生産性の決定権を握っていた。産業革命から、資本主義が本格的に始まり、封建制の社会を破壊した。
資本主義の社会。土地を離れた農民が製造業の担い手となった。彼らは封建領主からは確かに解放された。
だがまた別のルールが支配する新たなシステムに組み込まれたのだ。
そのシステムに目を凝らし資本主義のルールに光を当てた人物がカールマルクスだ(ドイツ)。イギリス亡命中に資本論を執筆している。
19世紀初め蒸気織り機の普及に対して大規模な機械の打ち壊し運動があった。
このラダイト運動を格好の口実に政府は労働者を厳しく弾圧した。
労働者たちが打ち壊すべき相手は「物質的な生産手段」ではなく「社会的な搾取形態」だった。だがその事に気付くには時間と経験が必要だった。
搾取という言葉を使いマルクスは資本家と労働者の格差を指摘したのだった。
昔ながらのイギリス人の憩いの場パブ。
かつて低賃金にあえいだ人々はここで不満の声をあげそれはやがて団結へとつながっていった。パブから労働組合が生まれた。
社会を一変させた産業革命。
だがその変化は一夜にして起こったわけではなかった。
競争によって物の価格が下がり最終的に利益を得たのは労働者だった。イギリスでは1800年からの100年間、労働者の生活の質は歴史上最も向上した。
富が全体に行き渡った原因は織物産業だ。資本家がイノべージョンによって莫大な富を蓄えたなら、今日のイギリスに私営の財団や私立大学がもっとあって然るべきだ。だから産業革命はいわば民主的革命だった。
近年複数の研究によって産業革命が一夜の劇的な変化ではなく持続的な成長であった事が指摘されている。しかし、産業革命をきっかけに格差が問題となる。近代医療のおかげで生き残る者が増えひとり当たりの土地が減り生活水準が下がる一方のものもいる。技術の進歩が一部の暮らしの質を悪化させた。
イギリスで始まった産業革命は周辺国にも波及する。国家が科学技術を主導産業を育てていく。
その新たな動きは欧米を席巻し重化学工業を中心とする第二次産業革命が産声をあげる。
この時世界の工場イギリスを追い越こすほどの国も現れた。
猛烈な勢いで近代化を推進する新興国ドイツ。ドイツはありとあらゆる技をイギリスから盗み、 1870年 までにイギリスを模倣し尽くし同じ水準に達し、独自の開発を始めた。(日本も同じプロセス)
技術が富を生むルールは新たな主役を生む。
20世紀初頭に工業大国に躍り出たのが自由の国アメリカだ。
ヨーロッパから海を渡り移民たちが大挙して押し寄せていた。
産業社会への転換は鉄鋼業のカーネギー石油会社のロックフェラーなど一代にして富をつかむ大富豪を生んだ
デトロイトに時代のルールを代えるイノベーションが生まれる。1908年に世に送り出されたT型フォードだ。創業者ヘンリーフォード。アイルランド移民の農家に生まれたフォードは機械工を経て40歳の頃当時ベンチャービジネスだった自動車会社を立ち上げる。
その頃はまだ馬車が使われ車は最先端の高級品だった。しかしフォードは馬に代わり自動車が新たな大衆の足になる時代を見据え誰もが手ごろに買える車を作れないかと考えたのだ。
車を安く作るアイデアが生まれたきっかけは食品加工工場の流れ作業の解体作業を見てという意外なものだった。
部品を規格化しベルトコンベヤー式の大量生産を導入。
車の価格を1/3以下にまで下げた。
しかし効率化は問題も引き起こした。
部品を組み立てる過酷な労働により7割以上が離職。
フォードは労働者の賃金を見直す。
それは大胆なルールの転換だった。
賃金について考えてみよう。
低賃金の労働者とは購買力の低い顧客の事だ。
失業者とは購買力のない顧客の事だ。
購買力の減少は不況をもたらす。
労働者は顧客にもなりうる。
人々に労働力のみならず購買力を見いだそうとしたフォード。
賃金の引き上げはすなわち購買力の増大顧客の増大を意味する。
事業の目的は消費者への供給だけでなく消費者を創造する事にある。
人々が求めているものを理解し適切な価格で生産しその過程で十分な賃金を支払う。労働者が車を買えるようになってはじめて顧客は創造される。
従業員はその企業を支える大衆の一部なのだ。賃金アップイコール購買力アップ。労働者から消費者へ。
それは社会に大量の需要と供給を生み出す事につながる。
技術の革新と市場の創造が両輪となって資本主義は加速していく。
経営の神様と呼ばれたフォードの方法論は多くの企業に模倣され大衆消費社会の時代が幕を開けた。技術の革新と市場の想像が両輪となって資本主義が加速する。
たくさんの人々が豊かさを手にする。
普通の暮らし中流という意識が人々に確実に共有されたのだ。
100年後の現代、また新たな技術が人々にもたらすものとは…。
今度は社会を分断すると懸念する声もある。
労働者の5割近くが機械に雇用を奪われるだろう。AIは長期失業をもたらし短期的にはより安い労働市場へシフトしていくだろう。まさに今イギリスで起きている。製造業の雇用が無くなり人々はより労働集約型の所得の低いサービス業へと移る。長期的に14時間の労働が半分にまで減るかもしれない。ケインズは1930年代に予想した。 皮肉なことに新たな技術に 人間の想像力が搾取されている。相変わらずストレスがある。 かつて労働者から搾取されていたのは体力だった 。ある意味では進歩したと言えるが矛盾を生んでいることに変わりない。

日露戦争 旅順総攻撃 - ミラーマンエース

2018/01/26 (Fri) 19:12:34

第10回 旅順総攻撃

陸軍参謀本部は日露戦争開戦当初、「旅順攻略」という作戦は考えていなかった。「旅順攻略」は海軍から陸軍に要請され、急遽実施された作戦であった。なぜ海軍は旅順要塞の攻略が必要であったか・・・。要塞のある旅順港にはロシアの旅順艦隊がある。これを日本海軍は殲滅しようとし、奇襲作戦や閉塞作戦を試みるも思ったような戦果を遂げることが出来ず、敵艦隊は旅順湾から出てこようとしない。旅順艦隊は、本国から回航されてくるバルチック艦隊の到着を待っていた。旅順艦隊、バルチック艦隊のそれぞれ個別で見ても、日本の連合艦隊とほぼ互角の力。ロシアとしては、バルチック艦隊が到着して旅順艦隊と合流すれば、その力は日本艦隊の2倍になる。そうなれば、日本艦隊に勝ち目はなかった。日本艦隊にしてみれば、バルチック艦隊の到着する前に旅順艦隊を1艦も残さず沈めておきたい。しかも、できるだけ早くそれを実行して、全艦隊を佐世保にドック入りさせ、軍艦を修理してバルチック艦隊を迎え撃つ準備をしておきたかった。日本海軍は焦っていた。

 しかし、要塞化された軍港内にいる艦隊を外洋から攻めてゆくというのは不可能に近い。どうしても敵艦隊を外洋へ追い出さなければならない。その追いだす方法として、陸軍をもって要塞を攻め、それを陥落させて陸から港内の艦隊を攻撃するというものだった。

 「旅順というものについて、陸軍の感覚は鈍すぎる。」
 というのが、秋山真之が常に感じてきたところだった。敵の旅順港内に、世界有数の大艦隊が潜伏していることの深刻さを、陸軍は理屈ではわかっていても、感覚上の激痛としてはあまり感じていないらしい。もし、この大艦隊が自由に海上にのさばり出れば、日本は海上補給を断たれ、満州に上陸した陸軍は孤軍と化し、敵の襲来を待たずして壊滅してしまうは必然。そうなれば、日本は日露戦争そのものを失うことになる。開戦当初予定になかった「旅順攻略」が、この段階では日本の命運を左右する重要な砦となっていたのである。しかし、陸軍参謀本部はそのことをどこまで深刻に捉えていたか、最初は旅順攻略に兵を割くことをためらった。あくまで陸軍作戦の本筋は満州平野であり、地名でいえば遼陽を制し奉天を制することにあった。それでも、海軍の執拗な要求にやがては屈し、乃木希典を司令官とする第三軍を創設し、それを遼東半島に送った。ただ、陸軍は旅順攻略などたいした時間はかからないだろうと楽観視しており、それは陸軍の頭脳・児玉源太郎といえども同じであった。

 乃木希典は東京を発つとき、「死傷者は1万人ほどで落ちるだろう。」と見ていた。その程度でしか旅順を見ていなかった。それを基準として攻撃法を決めた。その攻略法は、参謀長の伊地知幸介の頭脳からでたものである。ところが、第1回総攻撃だけで日本軍の死傷は1万6千人にのぼるというすさまじい敗北に終わり、しかも旅順を落すどころか、その要塞の鉄壁にかすり傷ひとつ負わせることも出来ず、要塞側の圧倒的な勝利に終わった。にも関わらず乃木軍はその攻撃法を変えず、第二回目の総攻撃をやった。当然、同じ結果がでた。死傷4千900人で、要塞は微動だにしない。
 「すでに鉄壁下に2万余人をうずめてみれば何とか攻撃法を考えそうなものである。」
 と、東京にいる参謀本部次長・長岡外史は、その日記で乃木と伊地知のコンビに対する憤りを書いている。戦争には錯誤や誤算はつきもの。しかし、長岡外史らが乃木軍の頭を疑ったのは、この錯誤をすこしも錯誤であるとは思わず、従ってここから教訓を引き出して攻撃方法の転換を考えようとしなかったことだった。

 「乃木では無理だった」という評価も東京の大本営では出ていた。参謀長の伊地知幸介の無能についても、乃木以上にその評価が決定的になりつつあったが、しかしそういう人事を行ったのは東京にいる幹部たちである以上、責めることもできない。更迭案も一部で出ていたものの、しかし戦いの継続中に司令官と参謀長を変えることは、士気という点で不利であった。しかし、「兵を送れ」と際限もなく兵の補充を要求し、ただいたずらに人間を殺す作戦をやめようとしない乃木軍をそのままにしておくわけにもいかず、長岡外史は有坂成章陸軍技術審査部長の提案を受け、日本本土の主要海岸に備え付けてある28サンチ榴弾砲を送ることを決定した。しかし、あろうことかこの報告を受けた乃木軍司令部の変電は、「送ルニ及バズ」というものであった。この件について司馬遼太郎氏の原作の表現を借りると、「古今東西の戦史上、これほどおろかな、すくいがたいばかりに頑迷な作戦頭脳が存在しえたであろうか。」となる。

 この、乃木希典と伊地知幸介の無能説は、司馬氏がこの小説の中で執拗に訴え続けたもので、その後の乃木と伊地知のイメージを決定づけたといっても過言ではない。しかし、この説については賛否両論があり、特に軍事の専門家の中に司馬氏の説を否定する意見が少なくない。そのあたりについては、私は専門家ではないので判断の材料を持たないが、ただ、乃木はのちに軍神あつかいとなって英雄となってしまったため忘れられてしまっていたが、この時期の乃木と第三軍に対する国民の批判は大変なものだったようで、日本にいた乃木夫人のもとには責任を取って辞職すべし、腹を切れとの抗議の手紙が何千通も送りつけられていたそうである。

 旅順要塞の前に屍となっていった兵士たちについて司馬氏はいう。
 「驚嘆すべきことは、乃木軍の最高幹部の無能よりも、命令のまま黙々と埋め草になってゆくこの明治という時代の無名日本人たちの温順さであった。『民は倚らしむべし』という徳川三百年の封建制によってつちかわれたお上への怖れと随順の美徳が、明治三十年代になっても兵士たちのあいだでなお失われていない。命令は絶対のものであった。かれらは、一つおぼえのようにくりかえされる同一目標への攻撃命令に黙々としたがい、巨大な殺人機械の前で団体ごと、束になって殺された。」

 さらに司馬氏はいう。
 「旅順攻撃は、維新後近代化をいそいだ日本人にとって、初めて『近代』というもののおそろしさに接した最初の体験であったかもしれない。要塞そのものが『近代』を象徴していた。それを知ることを、日本人は血であがなった。」

 戦争に誤算はつきもので、互いに誤算し合うが最終的には誤算の少ない方が勝つ。日本はこれほどの大誤算をしたのだから、本来負けるはずだった。しかし、そうならなかった歴史の不思議である。

日本には金がない。日露戦争が始まる直前に日本銀行が持っていた金貨はわずか1億1700万円にすぎず、これでは戦争ができない。日本の手持ちの金の7、8倍は公債のかたちで外国から借りねばららず、その公債募集のため日本銀行副総裁の高橋是清が各国を飛び回っていた。高橋は最初ニューヨーク飛び、そこで2・3の銀行に接触したが上手くはいかず、その後ヨーロッパに渡った。この当時、フランスは大きな金融能力を持つ国であったが、仏露条約の手前もあってロシアに金を貸していた。高橋はイギリスへ行った。イギリスとの間には日英同盟があるとはいうものの、日本に戦費を貸してくれるような性質の同盟ではなかった。高橋は、ロンドンにおけるあらゆる主要銀行や大資本家を歴訪したが、結果は絶望的だった。彼らは日本の立場には同情をしたが、しかし金を貸す相手ではないとみていた。

 そんな苦しい状況下で動き回っていた高橋のもとに、あり得べからざる幸運が転がり込んできた。たまたまロンドンに来ていたアメリカ国籍のユダヤ人金融家・ヤコブ・シフという人物が積極的に高橋に近づいてきて、「あなたの苦心はかねて聞いています。私にできる範囲で、多少の力になってあげましょう。」と申し出てくれたのである。その額は、日本政府が必要とする公債発行額の半分、5000万円だった。日本にしてみれば、まさに天からの救いのようなものであった。ヤコブ・シフはその後、高橋と外積の消化に大いに働いてくれるのだが、高橋はなぜこのユダヤ人が日本のためにそれほど力を入れてくれるのかが当初よくわからなかった。

 ヤコブ・シフは、フランクフルト生まれのドイツ系のユダヤ人で、若い頃にアメリカに渡り、古着屋からたたき上げた人物で、このときには米国クーン・ロエブ商会の持ち主であり、全米ユダヤ人協会の会長であった。シフは、日本に力を貸す理由を高橋にこう語ったという。
 「ロシアは、ユダヤ人を迫害している。われわれユダヤ人は、ロシアの帝政がなくなることを常に祈っている。そんなとき、極東の日本国がロシアに対して戦いをはじめた。もしこの戦争で日本がロシアに勝ってくれれば、ロシアにきっと革命が起こるに違いない。それゆえに、あるいは利に合わないかもしれない日本への援助を行うのである。」
 ロシア国内にはユダヤ人が600万人移住し、シフにいわせればロシア帝政の歴史はそのままユダヤ人虐殺史であるという。そう説明されたとき、高橋の秘書役の深井英五にはよくわからなかった。
 「人種問題というのは、それほど深刻なものでしょうか。」と、深井はあとで高橋にいった。日本人の概念ではユダヤ人は拝金主義者で、何よりも大切なはずの金を、勝つか負けるかわからない日本のために投ずるというのは理解しづらい。単一民族である日本人にとって、人種問題ほど実感の起こりにくい課題はなかった。

 ロシアにおけるユダヤ人迫害の歴史は古い。モスクワの南から黒海とカスピ海の間にかけグルジアに至るロシア南部には、かつてユダヤ教を国教とするハザール王国という遊牧国家があった(ユダヤ教を国教とするものの、パレスチナに起源を持つヘブライ人の末裔ではない)。ロシア帝国が台頭してこの地を治めるようになってからは、反ユダヤ政策が繰り返し行われ、16世紀に雷帝の異名をとったイワン4世の頃には顕著にあらわれはじめた。イワン4世はユダヤ人を “毒薬商人”と見なし弾圧、キリスト教徒にしようとした。それを拒絶した者はことごとく川に投ぜよという勅命がくだり、役人たちはそれを実行した。その後も時の皇帝によりユダヤ人追放令は何度も出されたが、1772年からのポーランド分割によってさらに多くのユダヤ人を抱えることとなり、ロシアは世界でもっともユダヤ人の多い国家となった。

 19世紀の後半になると迫害はさらにひどくなり、残忍を極めた。ヤコブ・シフは全米ユダヤ人協会会長としてこの事態に対してできる限りの手を尽くし、英国をはじめ各国政府に嘆願したが、内政干渉になるためどの国の政府も消極的だった。シフは、個人としてロシアに金も貸した。
 「金を貸すから、どうかユダヤ人をユダヤ人であるという理由だけで虐殺することはやめてくれ。」
 と、頼んだ。ロシア政府は借りた直後はその迫害の手を緩めたが、1年も経つともとに戻った。シフは何度も金を貸したが、ついに彼は帝政ロシアの体質に絶望した。
 「革命が起こらねばだめだ。」
 という信念を持つようになった。そんなとき、ロシア内部のどういう革命党や反政府組織よりも強力な力がロシアに楯突いた。それが、日本の陸海軍である。どういう革命党よりも命知らずであり、組織的であり、強力であった。
 「日本が、ロシアの帝政を倒すに違いない。」
 ヤコブ・シフは日本に賭けた。たとえ日本が負けたとしても、この戦争で帝政ロシアは衰弱する。それが、ヤコブ・シフの日本援助の理由だった。

 日本人がまったく知らない地域で起こっていた人種問題によって、日本が救われようとしていた。
 「世界は複雑だ・・・。」
 まさしく、高橋是清がいったこの台詞のとおりだった。

伊東巳代治 - ミラーマンエース

2018/01/25 (Thu) 08:59:23

伊東巳代治
この名前を聞いて「あ~あの人ね。」と答えられる方は相当歴史通な方です。私もこの人物については三谷幸喜さんの脚本で大津事件(ロシア皇太子暗殺未遂事件)をテーマにした舞台「その場しのぎの男たち」を観てはじめて知りました。実はこの伊東巳代治は日本の近代国家形成の過程に大変寄与された方で明治憲法制定にも深く関わっていてみたいです。今回はこの伊東巳代治について取り上げてみたいと思います。
伊東巳代治はペリー来航4年後の1857年に長崎町年寄の子に生まれます。時は開国か攘夷かの激動の時代です。伊東の少年時代は激動の時代だったと言えるでしょう。その後英語を学んだ伊東は上京し明治政府の工部省に出仕します。この時伊藤博文の目に留まり彼のブレーン官僚として活躍するようになります。そして明治憲法制定前に伊藤博文は渡欧し憲法調査をおこないますが、そこに伊東も随行しています。帰国後に伊東は井上毅や金子堅太郎とともに大日本帝国憲法制定に際しての草案起草にあたります。
明治憲法制定後は貴族院議員を経て枢密顧問官になり「憲法の番人」としてその存在感を示しました。また「東京日日新聞」(現毎日新聞)の社長として政府擁護の論調をとります。
伊東は晩年も枢密院顧問をつづけ自ら主張する(軍事力を背景にした)積極外交を政府に展開させようとします。これは高校の教科書に出てくる話なので知っている方も多いと思いますが1927年、金融恐慌により「鈴木商店」(第一次大戦によってもたらされた大戦景気で急成長を遂げた総合商社)が倒産します。この鈴木商店に多額の貸付をおこない破綻寸前に陥った「台湾銀行」(植民地台湾における中央銀行発券銀行)を救済する目的で当時の若槻礼次郎内閣は緊急勅令により、日銀からの特別融資で台湾銀行を救済しようとしますが伊東巳代治が顧問を務める枢密院に否決され救済に失敗、若槻内閣は責任をとって総辞職します。この話の裏には若槻内閣が進める協調外交(中国に対して武力的対立を避け、内政不干渉の態度をとる外交。幣原喜重郎外相が推進したので幣原外交ともいう。)によって蒋介石の北伐に何ら対策を講じないことに伊東が激怒し、若槻内閣を潰すために勅令を否決した事実があったのです。
こうしてみると、伊東はとても有能な官僚でありましたが、彼が日本軍国主義の下地とも言える憲法を草案し、協調外交を否定して帝国主義を推進したことで明治政府の崩壊を招いたと考えてしまいます。一概には言えないですけどね。

伊東巳代治の国連脱退反対運動

昭和8(1933)年2月24日、国際連盟総会は満洲における日本の特殊権益を認める一方、同地方の主権は中国にあるとする対日勧告を採択した。それは「千九百三十一年九月前ノ原状ヘノ単ナル復帰ヲ定ムルモノニ非ズ」とされたが、日本は前年九月、日満議定書により満洲国を正式承認していたので落とし所を見出すのは困難だった。この問題は前年12月9日、十九ヶ国委員会に付託されていたが、委員会の段階で日本の劣勢が明らかになっていたことから、1月下旬になると国連脱退の主張が各界で頻りに唱えられるようになった。それは朝野、左右を問わず、ほとんど国を挙げての現象と化したが、その中にあって独り国連脱退に異を唱えた人物がいた。



伊東巳代治
『近世名士写真』其1 所収
(国立国会図書館デジタルコレクションへ)

それは帝国憲法の起草者の一人で伊藤博文の懐刀として聞えた伊東巳代治である。伊東は明治32(1899)年以来、枢密院に蟠居し、政党内閣期には「内閣の鬼門」として恐れられた。金融恐慌救済緊急勅令問題では第1次若槻内閣を倒し、不戦条約問題では田中内閣を倒壊寸前まで追い詰めた伊東はロンドン条約問題で浜口内閣に一敗地に塗れてからは鳴りをひそめていたが、今ここに脱退反対に立ち上がったのである。伊東は2月6日夜のラジオで十九ヶ国委員会の審議が満洲国の不承認で固まったことを聴き、憂慮のために寝つけなかった。9日、伊東は来訪した二上兵治枢密院書記官長に「脱退の危険なる事并に其理由なきこと」を内閣に伝えるよう求めた。二上は大正5年以来、枢密院書記官長を務め、「枢密院の主(ぬし)」とも「枢密院の癌」とも言われた人物である。ここから伊東の活動が始まり、10日には政友会の望月圭介、11日には国家主義者の杉山茂丸(作家夢野久作の父)、12日には政友会代議士の西岡竹次郎、13日には東京日日新聞社副社長の岡実(政治学者岡義武の父)、実業家の山下亀三郎、14日には政友会の岡崎邦輔(陸奥宗光の従弟)に外交の失敗を痛罵し、潜水艦の急造など軍備の拡張を主張している。伊東は満洲国の承認そのものに反対していたのではなく、日本の国際的孤立がもたらす軍事的危機を憂慮していたのである。


ここまでは政府の外交失策への批判だったが、14日に来訪した貴族院議員の石塚英蔵に牧野伸顕内大臣に対して「一朝の怒に乗して聯盟を脱するの不可なる所以」を忠告せよと依頼したあたりから国連脱退反対運動が本格化する。同じ日には来訪した外交官の吉田茂に「英国に頼りて一箇年の猶予を求むへきこと」を内田外相に伝えよと求めている。イギリスは在華権益を守るために日本との妥協を模索しており、伊東はここに期待をかけたのであろう。15日には旧友でライバルでもある枢密顧問官の金子堅太郎と会い、金子に栗野慎一郎・黒田長成の両顧問官に国連脱退反対を働きかけるよう勧説した。伊東は原嘉道・元田肇の両顧問官には自分が接触すると述べている。16日、山下の取り次ぎで海軍大臣の大角岑生が来訪したので、伊東は国連脱退は南洋委任統治領を失うことになるとして反対を説いた。大角は、国連に1年の猶予を求めよとの伊東の提議については熱河作戦が始まろうとしているので覚束無いと答えた。伊東は大角に進退を賭して脱退に反対するよう勧告した。17日には貴族院議員の児玉秀雄(源太郎の長男)、民政党の俵孫一に入説し、児玉は翌日、斎藤実首相に伊東の意向を伝達した。


18日、岡が大角の内意を伝えに来訪した。大角は自分一人が一身を賭しても国内を紛擾させるだけなので、伊東の注意に背くことになるかも知れないと言って来た。要するに反対は出来ないということである。海軍の反対に期待をかけていた伊東はかなり失望した。19日、荒木貞夫陸軍大臣が来たので、伊東は外交的には遷延策をとって、その間に中国の譲歩を引き出すべきだったことや潜水艦の急造などの持論を展開した。伊東は近く開始される熱河作戦について触れ、さらに問題が起きるので国連からの全権引揚げや脱退は不得策で軽挙だと説いた。荒木からは特段の意見はなかったようだ。実質的に賛同しなかったのだろう。


伊東の狙いは枢密院だけでなく、政官界の有力者に広く働きかけることで潜在している脱退反対論に点火し、最終決定の鍵を握る唯一の元老西園寺公望の意思形成に影響を与えることだったらしい。伊東の反対論はあくまで国連に留まって主張を貫くことが日本の国益にかなうというもので、二上が「硬軟ノ別ナラ却テ非脱退説ノ方ガ硬論ト云フコトカ出来ル」(「倉富勇三郎日記」昭和8年2月15日条)と評するように、決して「協調外交」「親英米論」の立場をとるものではなかった。


20日、伊東はラジオで西園寺が「内閣の提唱に一もなく雷同したる様子」を聴いた。「上下挙って聯盟の態度に憤懣の余り自制する所を知らす、一に脱退論に邁進しつゝあり」と判断した伊東は、自分はすでに首相・陸海相に忠告したので「今後一切此問題に触れさる覚悟を為すに至れり」と、脱退反対運動を諦め、この問題に背を向けたのである。誇り高い伊東は政治的なプライドが勝ち目の薄い抗争で傷つくのを嫌ったのであろう。半世紀に及ぶ政治生活で伊東が放った最後の淡い光茫であった。

欲望の経済史 - ミラーマンエース

2018/01/23 (Tue) 07:58:32

欲望の経済史

第1回 時が富を生む魔術~利子の誕生
今、揺れる世界経済。資本主義の歴史とは、際限のない欲望のドラマだ。
 
 利子は遥か過去から存在した。4000年前のメソポタミア文明にも利子が有ったことが記録されている。金持ちは担保を取って農民に金を貸し、返済できなければ土地を取り上げた。差し押さえを怖れた農民は逃亡してしまい、土地は放棄されたので、社会の崩壊を恐れた歴代の王たちは何度も債務の帳消しを行った。

 キリスト教など大抵の宗教は利子を禁じていた(例外はユダヤ教で「仲間からの利子はダメだが、異邦人からなら利子を取っても良い」としていた)。しかし表向きは利子は禁止されていても、裏では金持ちはこっそり利子を取っていた。
 14世紀イタリアのメディチ家の二代目当主コジモ・デ・メディチは、為替相場を利用して実質的に利子を取る方法を思いついた。

為替相場が
フィレンツェ 1フィオリーニ:100ペンス
ロンドン 1フィオリーニ:80ペンス
として、
1)フィレンツェで10000ペンス(100フィオリーニ)を貸す
2)ロンドンで10000ペンス返してもらう。利子は取らない。それをフィオリーニに両替すると、為替相場の違いでロンドンでは10000ペンスは125フィオリーニになる。25フィオリーニ利子を取ったことと同じ。
 メディチ家はこれで大儲け。しかしコジモはもうけ過ぎると天国に行けないと思ったので、協会に寄付したり芸術家のパトロンになったりした。これがルネサンスの原動力となった。
 16世紀宗教改革でカルバン派は利子を認めた。今までも裏で利子は取られていたので、それをルールとして明文化し高利はダメだが5パーセントまでならOKとした。やがてカトリックも18世紀に利子を認めた。
 利子は資本主義を回していく上では必要不可欠な物となった。

第2回 空間をめぐる攻防 
 1600年。イギリスで半官半民の貿易会社「イギリス東インド会社」が誕生した。イギリス東インド会社は最盛期にはインド・中国・オーストラリア・アフリカ・アメリカと世界の七つの海の全てで貿易を行った。いま世界で英語が話されるのは東インド会社の影響と言える。
 貿易とは、ある場所で買ったものが、別の場所では希少性があることを利用して儲けること。
 イギリスは資源が無いので、輸入したものに付加価値をつけて再輸出しその差額で儲けるという方針となった。貿易黒字至上主義を「重商主義」という。 
 重商主義は富を蓄積することの他に、もう一つ軍事力の強化が目的だった。軍事力を強化すれば貿易を独占することが可能になり、独占すれば富が蓄積され、それで軍事力が強化できる。軍事力を強化すれば……、という具合に富の蓄積と軍事力強化はぐるぐる回る関係だった。
 1602年。オランダで「オランダ東インド会社」が設立された。この会社は株を発行しており、株の購入者には配当を支払う、というシステムが既に存在した。それ以前は航海一回ごとに金持ちから資金を募る必要があったが、株式という形にしてリスクを分散することで、普通の市民からでも資金を集められるようになった。
 しかし、貿易商同士の競争は国家も巻き込んだ争いに発展することもあった。
 重商主義は今でも形を変えて生きている。トランプ政権の姿勢やイギリスのEU離脱がそれである。第二次大戦前に各国は保護貿易に走り国家間で協力できなくなった事が戦争を起こした。アメリカと中国は北朝鮮問題で協力すべきだが、貿易問題で争って対立するようなことになるとマズイ。

第3回  勤勉という美徳
2009年秋のギリシャの財政赤字に端を発したユーロ危機。
ヨーロッパに信用不安が広がったがその国々にはある共通点。ポルトガルイタリアスペインなど「PIIGS」と呼ばれいずれもカトリックやギリシャ正教などプロテスタントではない国々。
宗教と経済効果には何らかの関係性があるのだろう。
プロテスタントの人々がスイスで興した産業が時計産業、400年以上の伝統を持つスイスの時計づくり。
16世紀宗教弾圧から逃れたフランスやドイツのプロテスタントの職人たちによって農閑期の副業として広まった。
アルプスの山々に囲まれた閉ざされた空間でその勤勉な働きぶりは遺憾なく発揮され伝統産業として脈々と受け継がれてきた。
プロテスタントの勤勉性に注目した一冊の書物、著者ウェーバーはプロテスタントの職業観こそが「近代資本主義の精神」を支えたと指摘した。倫理を説く宗教と利潤を追求する資本主義。
一見無縁とも思える両者に関係を見いだした書は社会学の金字塔と呼ばれるようになった。
近代資本主義の精神の始まりをウェーバーはある人物に見いだした。
宗教改革の指導者ルター。16世紀に始まったキリスト教の宗教改革のきっかけはローマ・カトリック教会がサンピエトロ大聖堂の修繕費を集めるために発行した贖宥状いわゆる免罪符だった。罪の赦しが金で買えるとは。
教会の堕落に抗議するルターに端を発した改革運動はプロテスタントという宗派を生みカルヴァンへと受け継がれた。
厳格な性格で知られるカルヴァンは教会の教えに頼らず聖書を中心に据えた教えを説いた。
それは神の救いは信仰の深さや日々の善行に左右されると信じたカトリックとは異なる教えだった。
「最後の審判」のあと誰が天国に行きまたは地獄に行く事になるかは我々が生まれるよりはるか昔神が永遠の予定として決めてしまっている。
我々はどんなに努力してもその予定を変える事などできない。また誰が救われ誰がそうでないかを知る手段もない。
自分は選ばれた人間か?その答えは神のみぞ知る…。絶え間ない不安に置かれた人々は日々何に救いを求めるのか。
そこで登場するのが「天職」。
自らの仕事を神から与えられた使命であるとし天職での成功こそ神から選ばれた可能性を示す唯一の道と考えたのだ。
神からの救いを手に入れる手段として休みなく働く事が教え込まれた。
この職業労働だけが死後の不安を追い払い神の恩寵を与えられたという「確かな救い」をもたらす事ができる。
労働の意欲に欠けているという事は神の恩寵が失われている事を示しているのだ。財産を持つ人であっても働かずに食べてはならない。
勤勉に働く事によって増えていく富。
これまでカトリックでは有り余った富は教会へ寄付する事がよしとされた。
富を蓄えてよいとするプロテスタントの「蓄財」の教えは新興の商工業者たちに熱烈に歓迎された。
これこそがカルヴァンの認めた「蓄財」の絶好の投資先となった。
勤勉から蓄財そして投資による富の増殖。プロテスタントの職業倫理から図らずも生まれたサイクル。
ここにウェーバーは近代資本主義の精神の芽生えを見いだした。
すなわち勤勉が富を生む。
それ以前は国家の力を背景に商人が独占貿易で富を築く重商主義の時代。
勤勉は新しい仕事の価値観だった。
更にウェーバーが注目したのはプロテスタントの勤勉性がオランダからイギリスそして新大陸アメリカへと波及していく流れだった。
そこでもう一人のキーマンベンジャミン・フランクリンが登場する。
プロテスタントの家庭に生まれ育ち印刷業を経て政治家になった人物。
当時重商主義政策のイギリスのもと植民地アメリカは重税にあえいでいた。
鬱屈した市民感情が爆発し1776年ついに独立を宣言。
フランクリンはその草案づくりに参加。
「建国の父」と呼ばれアメリカの礎を築いた。
彼がプロテスタントとして終生欠かさず自らに課していたルールがある。
他にも「沈黙」「誠実」「正義」などその数13に上った。
フランクリンはカレンダーに毎週1つの徳目を掲げ行動していたという。
ウェーバーが見いだした資本主義の精神。
それはまさにフランクリンの人生によって体現されていた。
印刷所を営んでいた25歳向学心に燃えるフランクリンは友人と読書クラブをつくる。
書物を読みあさる中で社会に役立てようと思いつき後にアメリカで初の公立図書館をつくった。
これが今日のフィラデルフィア図書館の礎となった。
フランクリンが富を築くきっかけは26歳。毎日徳目を掲げていたカレンダーを出版化する事を思い立つ。
フランクリンが自ら考え出した格言やことわざが印刷されたカレンダー。
これがベストセラーになった。
議員時代アメリカ独立のきっかけとなる出来事が起こる。
列強との植民地争いに明け暮れるイギリスは膨大な戦費を賄うため「印紙税法」を導入してアメリカへの課税を強化した。
フランクリンはイギリスへ赴き粘り強い交渉の末法律を廃止に追い込む。
不当な政策に反対し権利を取り戻す事ができると自信をつけたアメリカ。
やがてイギリスに反旗を翻し独立戦争が勃発。翌年アメリカは独立を宣言。
フランクリンはその宣言文の策定にも関わった。
宣言にはこうある。
フランクリンが体現してみせた「勤勉さ」は欲望を満たすための手段ではなく、むしろ倫理的な生活のルールと蓄財そのものが自己目的化した生き方。
それこそが時代を画する資本主義の精神だったのだ。
アメリカが資本主義への歩みを始めた年。
奇しくもイギリスで一冊の本が出版された。
著者は経済学の父アダム・スミス。
それぞれの自己利益の追求が「見えざる手」によって社会全体の利益になる。
その教えを記した書は自由競争のバイブルとなってゆく。
貿易の歴史から現代の問題を読み解くロンドンの経済学者が語る。
アダム・スミスのもう一つの顔とは。
当時イギリスは軍事力を背景にヨーロッパ諸国とし烈な競争を繰り広げ植民地との貿易でばく大な富を得ていた。
富の収奪とそれが引き起こす戦争のサイクル。
スミスが説いたのはグローバルな競争によって富を獲得する欲望の在り方からの脱却だった。
すなわち労働によって価値を生み工場やマーケットなど人々の活動の場で富を増大させるべきだと説いたのだ。
それはこれまでおろそかにしていた国内での足場を固める大胆な政策の転換だった。
土地を改良し分業を進め生産性を上げる。
その上で価値ある商品を自由に売買し富を得る事。
スミスの主張は産業革命が本格化するイギリスで支持される。
重商主義から自由主義へ。
ルールは書き換えられてゆく。
そして再び現代。
プロテスタントの人々がかつて体現したあの勤勉性はその後どうなったのか。
時代の移り変わりとともに見直しも指摘されるウェーバーの考察。
だが富を生むルールを時代の精神から読み解こうとしたその視点は古びる事がない。
変化の時代勤勉性の意義も変わりつつあるのか。
新たなテクノロジーが飛躍的な進化を遂げようとしている今人類学の視点から時代を見つめるフランスの経済学者は…。
一方西洋とは異なる論理で勤勉さを美徳としてきた日本。
しかし今…。
チェコの異色の経済学者は…。
やめられない止まらない。
時代の中で人々の欲望がつくり上げたルール。
それが書き換えられる瞬間を見つめる「欲望の経済史」。

陸奥宗光2 - ミラーマンエース

2018/01/12 (Fri) 17:04:53

陸奥宗光

1844~1897 和歌山市生まれ
日本外交史に輝かしい功績を残した「カミソリ大臣」

弘化元年(1844)、藩の勘定奉行、寺社奉行を務めた伊達宗広の六子として現在の和歌山市に生まれる。のちに姓を伊達から陸奥に改め、源二郎、陽之助、宗光と名乗った。安政5年(1858)、江戸に出て幕府の学問所に学び、文久3年(1863)、神戸に設けられた海軍塾で勝海舟に師事。そこで知り合った坂本龍馬の亀山社中、海援隊に参加。龍馬をして「独立して自ら其志を行うを得るものは只余と陸奥のみ」と言わしめるほど手腕を発揮したという。

明治維新後は、津田出らとともに和歌山藩の藩政改革を実現させ、兵庫県知事や地租改正局長などを務めたが、薩長藩閥政府のあり方に不満を持ち辞職の後、元老院議官となる。明治11年(1878)、西南戦争に乗じて政府転覆を謀った立志社事件に関与したとされ、禁獄5年の刑に処せられるが、明治16年(1883)赦免により出獄、2年余りの外国留学を経て外務省に入省する。

江戸幕府が諸外国と締結した条約は、種々の不平等な条件を強いられており、これらの改正は、近代国家としての地位を確立するための重要な外交課題であった。明治21年(1888)、駐米公使としてアメリカに赴任した陸奥は、同年11月メキシコとの間に、わが国初の対等条約である日墨修好通商条約を締結。また、明治25年(1892)には第二次伊藤博文内閣の外務大臣に任命され、明治27年(1894)、治外法権の撤廃と関税自主権の一部回復を内容とする日英通商航海条約の締結に成功。これによって各国は英国にならい、次々と日本と改正条約を結ぶことになる。同年、日清戦争が勃発、翌28年に陸奥は伊藤首相とともに、下関で行われる清国との講和会議に出席し、日本にとって有利な条件で戦争を終結させる日清講和条約の調印を成功させた。

日本の近代化に辣腕を振るい、機略に富んだ資質から 「カミソリ大臣」と呼ばれた陸奥宗光は、明治29年(1896)に病気療養のため大臣の職を辞し、その翌年53歳で亡くなった。



陸奥宗光 むつ むねみつ (1844-1897)
1844年、陸奥宗光は紀州(和歌山県)藩士の子として生まれました。
京都にいたとき、坂本龍馬を知ります。
龍馬は貿易などを行う海援隊を組織。
陸奥もその一因となって活躍します。
新政府ができると、陸奥は外国事務局に入って外交の仕事に就きました。
ついで、兵庫県や神奈川県の知事となり、1872年には、地租改正についての意見書が認められて大蔵省に移ります。
西郷隆盛らによる征韓論が起こると、陸奥は中立の立場をとります。
しかし、薩摩藩と長州藩の出身者が政治を勝手に動かしていることに不快感を示し、政府をやめました。
1877年に西南戦争が勃発。
陸奥も兵をあげる計画を立て、禁獄5年の刑を受けます。
1884年、出獄した陸奥は伊藤博文のすすめもありヨーロッパとアメリカに留学。
2年後に帰国し、外務省に入ると、アメリカ公使となってメキシコと通商修好条約を結びました。
1890年、山県有朋(ありとも)が総理大臣になると、陸奥は農商務大臣に抜擢されます。
2年後、伊藤博文内閣の外務大臣となると、イギリスとの交渉を開始。
江戸時代に結んだ不平等条約の改正に尽力します。
これにより、1894年、日英通商航海条約の調印に成功。
治外法権が取り除かれ、日本で外国人が罪を犯したときに日本の法律で裁けることになりました。
下関条約と三国干渉。
1894年。朝鮮で農民の反乱がおこります。朝鮮政府はこれを鎮めるため、清(中国)に援軍を依頼。
朝鮮への進出をもくろむ日本もすぐさま軍隊を送りました。これをきっかけに、日清戦争が勃発。日本は清に勝利し、下関条約を結ぶこととなります。
下関条約の内容が明らかになると、アジアへの南下を企むロシアがドイツ・フランスを引き連れ干渉してきます。しかし、強大な3ヵ国に対抗する力は、日本にはありません。そこで陸奥はやむなくこの要求を受け入れることにしました。
1896年、病気により陸奥は外務大臣を辞めました。

陸奥宗光と児玉源太郎の才能

石黒忠悳は、児玉源太郎伯は非凡の人であったと回想して、つぎのように語っている。
真にこの人は偉い人だと思う人は滅多にないが、児玉伯は実にその人です。人はよほど注意せぬと地位が上るにつれて才能が減ずる。私の知っている人で大臣などになったのも少なくないが、どうも皆そうです。後藤新平君でさえ私の見るところでは、大臣になってから十分の三ぐらいは確かに鈍ったと思います。それがそうでなかったのは、私の知っている限り児玉源太郎・陸奥宗光の二人です。私は何かことあるごとに、この難局にもし生きておられたらばといつも思い出すのはこの二人です。
二人の才能はなぜ鈍らなかったのだろうか。

陸奥の叛骨

陸奥宗光といえば、海援隊時代に坂本龍馬から信頼されていたことで知られる。
「わが党の士にして、両刀を取り上げて飯が食える者は、ただ俺と君のみだ」
と坂本龍馬が語っていたと陸奥は徳富蘇峰に述べている。(近世日本国民史 西南の役(七) 西南役終局篇)。
陸奥の話が誇張でないことは、彼が津田出(つだ いずる)とともに紀州藩で行った政治改革、兵制改革、人材登用――鳥尾小弥太(とりお こやた)、松本順(まつもと じゅん)、林董(はやし ただす)らを抜擢――などを見ても明らかである。
このような才覚が、後年まで鈍磨しなかったのは叛骨精神があったからだと考えられる。
たとえば西南戦争のとき、挙兵して政府顛覆をしようとしたところは陸奥の先祖とされる伊達政宗とどことなく重なる。血縁関係の有無はともかく、容易く人に服せず、服したように見えたときでも腹に一物を抱え、油断ならないところが似ている。
それなので陸奥を熟知していた鳥尾小弥太は、「陸奥は機略縦横の士、もし彼に紀州の兵力を与えたならば、あたかも虎に翼を授けるものある」といい、陸奥の募兵を阻止した。
また陸奥はつぎのようなことを側近に語っている。
「我輩は断じて何人にも屈せぬ。膝を相手に折らねばならぬのは、畢竟するに食えぬ、俸禄に離れる心配があるからであるが、卑怯者たらずとも、我輩には腕がある。誰にも依憑(いひょう:依頼)せずとも衣食する腕がある。翻訳をやってもネ」
彼がこのように矜恃していたのは、己の才腕にかける自信が揺るがなかったためだろう。

 児玉大将

児玉大将の伝記を書いた宿利重一は、陸奥が側近に語った言葉を引き合いにして、児玉大将にも陸奥に譲らず矜持するところがあった記している。
たとえば児玉大将は、伊藤博文と基隆港(キールンこう:台湾)の工費で意見が衝突したとき、
「政治上で絶交いたします」
と述べたこともある。
また明治36年のこと、伊藤博文が軍事費削減を桂太郎に迫ったことがある。このとき児玉大将は台湾から東京に戻り、途中、山縣有朋と談論した。児玉大将の意見に賛同した山縣は、すぐ伊藤のもとにいって協議してみよと勧めるが、
「不肖は、首相桂太郎の下に属する台湾総督である。首相の許しを得たあとでなければ、大磯(伊藤のもと)に赴かない。先輩である閣下の命だとしても、承諾できないところだ」
と山縣に言い放ったという。

山縣ついては次のような発言もある。
「俺はあれ(山縣)共に体の頭は下げても、心の頭は下げとらん」
井上馨にたいしても同様だった。台湾総督として赴任する前、長々と指示する井上の話の腰を折り、
「午餐の時になった。これくらいで御免を蒙ることにしよう。すべては渡台の上じゃ、失礼!」と立ち去ったという。
上司に膝を屈しなかったところは陸奥も児玉もおなじであるが、陸奥が叛骨の気味があったのに対し、児玉大将は虚心、虚無恬淡だったと考えられる。私心というものが少なかっただけに保身することなく、上司に抗ってでも正しいと信じたところを行ったのだろう。
彼らはつねに理想を抱いていた。そこに到達するために、たゆまず刻苦精励したから才覚が鈍らなかった、あるいは磨かれ続けたのかもしれない。

陸奥宗光と大久保利通

西南戦争が勃発した頃、陸奥宗光は政府転覆を画策していた。陸奥の目的は、この擾乱に乗じて藩閥政治家を打倒し、立憲主義の木戸孝允をたて、進歩派の板垣、後藤とともに新政府を組織することにあった。そして標的は、藩閥政治家の巨頭であり、立憲主義に反していると見られた大久保公であった。
大久保公が立憲政治を目指していたことは伊藤博文が証言しているし、人材登用をみても藩閥政治家ではないことは明らかである。しかし当時の急進主義者には、既述とおり反立憲主義、専制主義者大久保と映じており、大方の見解も同様であったのだろう。
小松緑は、陸奥から聞いた当時の事情を著書に載せている。
 陸奥は、後年、著者(小松)に当時の事情を語って聞かせてくれた。もちろん自己弁護の動機からであったろう。
「我輩は国事犯の汚名を蒙ったが、それも君国のためを思う一念から起こったことじゃ。試みに思え、欧米の強国が、理不尽な治外法権と関税制限とで、我国の手足を束縛している時代にあって、焦眉の急務ともいうべきものは、条約改正の一事を成し遂げることではないか。この目的を達するには無能無識の藩閥政治家や外交官やにかえるに、特殊専門の学識能力ある有為の人才をもってしなければならぬ。それには、まずもって頑迷不霊な守旧派を一掃する必要があった。予はたまたま木戸や大江や林などと所見を同じうしたまでのことじゃ」
 事の真相はこの通りであったに違いない。その内に西南戦争の形勢は次第に賊軍の不利にかたむいて行くので、機敏な陸奥は、事既に去れりと見て、挙兵の運動を中止して、京都から引き返し、何食わぬ顔をしながら、依然として元老院に出仕していた。 ――『明治外交史実秘話』

陸奥を排斥しようとした河野敏鎌

小松の記述からもわかるとおり、当時陸奥は元老院議官だった。同僚には河野敏鎌がいた。土佐出身の河野は、陸奥とは因縁浅からぬ仲であったが、いつも陸奥の論鋒にやり込められていたため排斥する機会を待ち構えていた。
その河野は、大江、林ら土佐一派と陸奥の通謀を察し、しかも証拠となる暗号電信を入手する。そこですぐさま大久保公の邸宅に駆けつけ、
「陸奥が土佐派一味と気脈を通じて、政府転覆の陰謀を企てていたという形跡は、歴然としてもう掩うことはできなくなりました。わけて大江、林らを逮捕した今日、その連類たる陸奥独りを放任しておくわけには参りますまい」
と語って、証拠となる暗号電信とその訳文を差し出した。
大久保公はしばし沈思にふけったあと、証拠書類には一瞥もせず手提げカバンのなかに無造作に投げ込んだ。この手提げカバンには秘密書類が入れられ、大久保公が肌身離さず持っていた。後年、伊藤が引き継ぐことになる。
それから重い口を開いて、
「陸奥のことについては俺(わし)も大体知っている。風雲に乗じて功名を急ぐは、彼のやりそうな事だ。しかし、一度は思い立ったにせよ、時の非なるを悟って中止したとすれば、強いて追及するにも及ぶまい」と独り言のように述べた。
当時は司法と行政との区分が明確になっていないうえ、国事犯となると政府の命令がなければ検察官、裁判官も追及できない制度だった。政府の実権は、大久保公の手に握られていたも同然であったので、その大久保公が追及しないとなれば、それ以上河野にはどうすることもできなかったのである。

大久保の死後
明治11年5月、大久保公が暗殺される。それにより伊藤博文が内務卿となり、秘密書類を入れていた手提げカバンも伊藤に引き継がれた。
河野敏鎌はこれを好機とみた。伊藤のもとにむかい、その栄転に祝辞を述べ、すかさず陸奥のことに話題を変える。
「陸奥の一件でありますが、一旦謀反を中止したと言いながら、彼の終極の目的が藩閥政府打破にある以上、その危険性は、今なお消滅してはおらぬ。いわんや罪跡すでに明らかなりとすれば、法律上からいうも、また官紀上からいうも到底放任しておくわけには参りますまい
後年、伊藤が韓国統監府初代統監に就任したころ、秘書的な役割を務めた小松緑は、以下のとおり述べている。
 河野は、いかにももっともらしい理屈を並べたてて、自分が先に大久保に差し出した書類について伊藤の注意を促した。さなきだに小心な伊藤は、容易く河野の進言に動かされてしまった。――『明治外交史実秘話』
つまり伊藤は、「宜しい。罪跡明らかなら、もはや許すわけに行くまい」と陸奥を法廷で裁くことを決めた。法廷でも陸奥の弁才は遺憾なく発揮されたのだが、「簡単不明瞭」な判決文によって投獄されてしまった。
さきにも述べたとおり小松緑は、伊藤の秘書を務めていたこともあり、また『伊藤公全集』の編纂者でもあった。その小松が上で引用したように「小心」と述べているのは意外な気がする。しかし、それは大久保公の度量と比較したら仕方がないことなのかもしれない。
伊藤はもちろん大久保ほどの雅量を持ち合わせていなかった。大久保のえらかったのは、ちょうど八幡太郎義家が自分を兄の敵と付けねらっていた安部宗任を親近して少しも疑わなかったと同じ点にある。
 藩閥政府を転覆せんとする陸奥の企ては、言うまでもなく当路の実権者たる大久保を真っ先にたおすことであらねばならぬ。大久保がそれを知りながら、陸奥の旧悪を不問に付したのは、余程の大度量でなくては、できない芸当だ。――『明治外交史実秘話』
またこれは余談であるが、小松はこの入獄が陸奥を大成させたと述べている。というのは、陸奥自身も述べているように精神修養と学問研究の絶好の機会となり、また罪滅ぼしのためでもあっただろうが伊藤は陸奥が有能であることを知り抜擢することになったのである。その後の陸奥は藩閥打倒の宿願は果たせなかったとはいえ、大打撃を与えたことは言うまでもなく、しかも条約改正についてはまったく陸奥の才覚によるものであった。条約改正における陸奥の奇才については、林董の興味深い証言もあるが、それはまた別の機会に譲ることとする。

 

陸奥宗光 - ミラーマンエース

2018/01/12 (Fri) 06:43:21

陸奥宗光 亮子

「旗本のお姫様」として生まれた亮子だが、実母は妾。幸せな少女時代ではなかったようだ。しかも明治維新後、実家は没落。亮子は新橋で芸者とならざるをえなかった。時に体罰を受けながらも芸の稽古に専念する思春期を過ごした亮子だが、「小鈴」の名前で芸妓としてお座敷にあがるようになってからは、その美しさで高い人気を得る。政界のお歴々から口説かれる亮子だが彼らになびかず、結果的に「男嫌い」などと誹謗された。彼女の態度は、密かに慕っていた陸奥宗光への想いゆえともいわれる。

 亮子が陸奥の後妻になったのが、明治6年(1873)、17歳の時。先妻が亡くなってわずか三カ月後のスピード再婚だった。亮子にとっては芸者から政治家の奥方への華麗なる転身だったが、苦労は続く。後に「カミソリ大臣」とあだ
名される陸奥には敵も多く、明治11年(1878)には政府転覆活動に加担した罪で、投獄されてしまったのだ。


 宮城牢獄から陸奥は亮子に何通ものラブレターを送った。陸奥の友人宅に、子どもたちや姑と共に身を寄せていた当時の亮子にとって、夫からの手紙は励ましになったことだろう。漢詩が添えられていることもあった。「夫婦天涯別れること幾春ぞ」の一節は有名だ。

 しかし陸奥から大量の手紙が贈られた理由には、美しい亮子が別の男のモノになってしまうのではないかという恐れや嫉妬、さらには後ろめたさもあったようだ。陸奥は宮城監獄で働く洗濯女に手を出し、女児まで産ませていたのだ。陸奥の女性問題はこれだけで終わることなく、それに終生悩まされ
る亮子ではあった。

 明治15年(1882年)、特赦によって出獄した陸奥は政界に復帰、順調に出世していく。
 明治21年(1888)には駐米公使となった陸奥を支えるべく、共にアメリカに渡った亮子は英語を駆使、現地の高官やその妻たちと渡り合った。彼女の堂々たる態度は「ワシントン社交界の華」と讃えられるほどだったという。

無題 - ミラーマンA

2018/01/11 (Thu) 20:06:49

今般、日本の総理大臣になるには、東京大学や早稲田大学、慶應義塾大学といった高学歴が必要条件になっている。もちろん、それだけでは総理大臣にはなれない。ほとんどの総理大臣は世襲議員、つまり祖父、父もしくは義父が国会議員。血縁も日本政界では出世の条件として重視される。

そうした永田町の掟は、今に始まった話ではない。明治維新で徳川治世が終了して、封建体制が崩れ去ると、能力のある者なら誰でも出世ができるようになった。

しかし、それは建前に過ぎない。実際、明治政府内では薩摩藩、長州藩出身者が幅を利かせた。明治政府内で第二勢力とされた土佐藩、肥前藩出身者も数ではそれなりに多かったが、薩長と比べれば就任できるポジションの差は歴然としていた。明治政府で出世するには薩長出身であるか、陸軍・海軍で軍功を挙げるしかなかった。そんな明治政府内において、まったくの徒手空拳ながら政府の中枢まで上り詰めた男がいる。それが後藤新平だ。

異才が集まった内務省衛生局

後藤は仙台藩の下級武士の家に生まれたが、幕末に医者の道に進んだ。福島県で医者として勤務していた後藤は、その才能を認められて内務省衛生局に抜擢された。内務省衛生局は、日本衛生の父・長与専斎が立ち上げた部署で、日本細菌学の父・北里柴三郎も衛生局で働いた経験がある。異才が集まった内務省衛生局だったが、当時は現代のように衛生の概念が市民に芽生えておらず、さほど重要な部局とは思われていなかった。

江戸幕府から明治政府へ政権が移行した直後、東京は荒廃しきっていた。江戸に逗留していた大名たちは、幕府崩壊とともに地元に帰郷。人口は激減して、東京は急速に衰退した。荒廃した東京を立て直すべく、明治政府は次々に策を打ち出す。東京のにぎわいはそれなりに戻ったが、小手先の政策では東京を世界に伍する都市に成長させることは難しかった。

水源地でコレラ発生

そこで、政府は東京の市区改正を検討した。市区とは、当時の言葉で“都市”を意味する。市区改正とは、現代で言うところの“都市改造”“再開発”ということになる。「政財界の重鎮が集まり、東京をどのように改造するのか?」といったことが話し合われた。

話し合いの結果、市区改正で家屋の不燃化・道路の拡幅・上下水道の整備を重点的に進めることが決められた。市区改正の重点メニューのうち、特に急を要するものが、上下水道の整備だった。江戸時代、各地の為政者をもっとも悩ませたのは“水”の確保だった。当時、水はかなりの貴重品だったため、水源地は幕府御用林として厳重に管理された。容易に人が立ち入ることは禁止されており、それは明治に移っても変わらなかった。

後藤 - ミラーマンA

2018/01/11 (Thu) 20:04:28

後藤新平山脈


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